社会保険労務士 水野裕之のブログ

労務相談からプライベートまでありったけの情報を!!
カテゴリ:生い立ち( 11 )
子供の頃3
子供の頃三部作の最後を飾ります。
これは、小学校3年ぐらいでしょうか。

鹿児島へ家族旅行に初めて飛行機に乗り、市内観光のバス内での写真。
この頃の記憶は、大分薄らいでは、いるものの覚えているものは、
桜島、西郷隆盛の銅像、おいしいラーメン屋、飛行機内でかった飛行機の
おもちゃ、そしてこの車内で見たバスの両サイドに広がる海 であろうか。

旅行途中に両親がけんかしていたような記憶もあるが、あまり思い出したくない。
旅行には、けんかがつきものというが、楽しいはずの旅行であるから、けんかだけはやめてください。
しかし、旅行はいいもんだ。

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by himawari-office | 2008-02-25 07:34 | 生い立ち
子供の頃2
前の写真よりちょっと成長しましたね。
大体小学校3年生ぐらいのときでしょうか。
はいてるズボンの模様がデザインなのか、変わってますね。

ちょうど小学校三年生の三重県の小学校にいたとき、好きな女の子がいました。
休みの日にその女の子から私に電話があり、何だか照れ臭くて 「いないといって」と
母に断ってもらい電話に出なかった事がありました。

何ともったいないことか。
好きだったのに。
それ以来、その子とは、電話を交わすこともなく終わる。

チャンスは、2度ない。
まさにその当時、幼いながらもすくずくと感じたものです。
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しかし、もったいない。何で電話に出なかったのだろう。もし、出てたらと思うと悔やまれます。
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by himawari-office | 2008-02-24 20:24 | 生い立ち
子供の頃1
私の子供の頃は、こんな感じでしょうか。

確か後ろの車は、サニーだったと思います。
本当に懐かしいです、といいたいところですが、ちっとも覚えていません。

幼い頃を思うといつも親や周りの人に迷惑を掛けてばかり、子供の割には
偏屈でひねくれ者。

特に親には、「何だこいつは?」と思われていたようですね。

子供の頃は、夢が青天井で何でもできる、何にでもなれると勝手に思った
自分が羨ましくも思い、段々年を重ねるとは、段々可能性の選択支を狭めて
いくことなのか?

個々最近、「若い者はいいなぁ」と思うことが多く、オヤジの域に入ったのであろうか。
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by himawari-office | 2008-02-24 10:15 | 生い立ち
パプアニューギニア ブーゲンビル島で亡くなった祖父へ
私の祖父は、太平洋戦争の最前線のブーゲンビル島で戦死しました。
ブーゲンビル島は、オーストラリアの少し北パプアニューギニアの東にある最大の島です。

私は、愛知県一宮市にお墓がある亡き祖父についてどんな方なのか少しの話でしか知りませんが心情的に遠い人だと思いません。私の母もほとんど覚えてないといいます。
この祖父がいなかったら母がおらず、もちろん私もいないからです。
もう少し戦争が早く起こっていたら間違いなく私は存在していない。

私は、どんな容姿でどんな性格であったのかよく知らない亡き祖父を深く偲びます。
そして唯一、祖父の生きていた証となるお墓には、手を合わせ感謝します。
そして、35歳の若さで不遇にも命を失った亡き祖父のためにも精一杯命を全うしようと決意する次第です。
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by himawari-office | 2007-12-05 11:48 | 生い立ち
尊敬する元の職場の上司へ
私の最初の就職先の上司であり私の採用の担当だった方を尊敬しております。
過去形ではないのは、寂しい話ですが、今でもお会いして現状の報告をできるものならさせていただきたい人だからです。
その方がいなかったら今の私もなかっただろうし、事細かに教えていただくことはなかったとしても仕事の考え方などは、この人から少しでも吸収しようとしていた記憶があります。

人の上に立つことができる人というのは、組織全体でどうすれば、上手く人を育てて仕事の成果が上るのかを機敏に察知して的確に指摘できる人だと思います。
そして、常に自分の感情をコントロールするが、喜怒哀楽を適度に使いこなすことができ怒っているのですが、聞いている人がどこか安心できるのが理想だと感じます。

あるときこんな場面がありました。つい私は、他の上司の指示がコロコロと変わることに若さからか感情的になってしまっいました。
そして、その尊敬する上司の方(他の上司の上司にあたります。)に呼ばれました。
私は、絶対に怒られて退社させられると覚悟してその上司のところへ行きました。

私は、謝ることもままならず、「つい感情的になってしまいました。」とだけいいました。
その上司からは、「人間は、感情の動物だ。仕方がない。しかし、感情で訴えると相手も感情で返ってくるから話がこじれる。仕事は、結果としてどうしたら上手くいくか人の気持ちを汲み取りながら考えることが大切だ。」のようなことを言われました。

そのとき、まず、自分が責められても仕方ないと思っているときに不意をついて「人間は感情の動物だ。」と一応肯定していただいたことがなぜか耳から離れません。
その人の懐の深さとか洞察力から私がどういわれたら私がやる気となって働いてくれるかを的確な言葉として返したのでしょう。今まで人にもまれた経験から出た言葉だと思い素直に受け止めました。
その上司の方は、すでに現在70を超えてとっくに引退されています。
本当に是非もう一度、お会いしたい人です。そして、本当にありがとうございました。
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by himawari-office | 2007-11-07 20:13 | 生い立ち
なぜ社会保険労務士になったか①試験について
私が、社会保険労務士という存在を知ったのが健康保険組合に勤めていたときです。
ちょうど、そのときある事業所と社会保険労務士が会社の納めるべき保険料について提出書類が誤っていたために保険料が過去に遡って納めてないことについての相談でやってきました。

その時は、会社がどうしたらいいだろうと社会保険労務士に相談して組合に来たと思います。
そのときの社会保険労務士の対応は、会社も役所の間に入って調整する調整役で会社にとっては、わからないことを社労士に頼っている補佐役なんだなとなんとなく思ったぐらいでした。

しかし、社会保険の実務をつんでいくにしたがって労災や年金について興味がわき社会保険労務士の資格を取りたいと思うようになりました。そして、行く末は、社会保険労務士になって事務所を運営したいと思った次第です。

おかげさまで社会保険関係は、ある程度、勉強していたため労働保険関係を重点に勉強して1年で合格することができました。そのとき私は、28歳。まだまだ今に比べて若かったために多少無理しても何とかなりました。
試験勉強中は、とにかく時間を取ることに専念し、午後5時頃に仕事が終わるとサッサと家に帰り勉強、朝は、早く起きてまだ、誰もいない事務所で勉強と土日は、ほとんど勉強と勉強三昧だったと思います。この合格は今までの中で一番嬉しい日ではなかったではないでしょうか。しかし、もし、落ちていたら多分、あきらめていたでしょうね。それくらい合格するぞという意気込みだったのです。
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by himawari-office | 2007-10-01 15:50 | 生い立ち
迷い
皆様は、どうか知りませんが私が今まで振り返った人生を一言で表すとこの「迷い」でしょうね。
こんなこと言っては、何ですが本当に迷いました。今でも相変わらず迷い道を歩いています。
しかし、私は、もうすでに39歳いったいいつもまでつづくのやらとあきれぎみです。

まず、最初に迷ったのが高校進学、そして大学進学、さらに将来はいまだに進行中です。

この迷い人生の中で思うのは、他の要因でなく、あくまでも自ら迷っているから仕方がないしある意味納得しています。私は、まだ、迷えるだけいいと思います。
世界には、生きてくために迷っている場合でない方も多数いらっしゃいます。
戦争中なんかは、迷っていたら殺されます。

私から見てこの方も迷うのかなと思うバリバリな方もいますが、同じ人間である以上レベルが違えどどこかで迷っているのですかね?
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by himawari-office | 2007-09-11 15:04 | 生い立ち
小さい頃の思い出
よく中日ドラゴンズのお話をするのですが、中日がナゴヤ球場の前身中日球場といわれたころよく家族と一緒に子供のころ野球を見に行きました。

球場近くの木の臭いのする製材所のようなところで車を駐車して歩いて球場に向かうのです。
今思うとこのとき球場から聞こえるアナウンスの声、球場周辺にいるチケット兄さんが懐かしいです。家族で今日の先発は誰で、今日は必ず大島がホームランだと言って意気込んでいざ野球観戦に望みます。
現在、ナゴヤドームとなって中川区にあった当時の何ともいえない下町の雰囲気が感じられないので寂しいです。
友人と行ったときは、ご存知紙ふぶきを持参して思いっきり空に向かって投げるのです。そうするとなぜか風にのっていつも一緒のところに向かっていきおばさんの顔に当たってしまい少々恥ずかしい思いもしました。あと、前のおじさんのうどんに入って気まずい思いもしました。

ほんとに子供の頃に出会った中日球場は、いい思い出です。
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by himawari-office | 2007-08-29 16:34 | 生い立ち
名古屋にやってきて
私は、小学校4年生から名古屋市南区の菊住小学校に転校しました。
最初、来たときにびっくりしたのは、空気の悪さ等の環境、言葉でした。
私は、その前、前回のブログにも書きましたが、三重県員弁郡阿下喜という小さな町で暮らしていたため幼心から相当なカルチャーショックでした。

空気や水などが合わずに小児喘息にかかり一時、阿下喜に帰って療養していたこともあります。言葉は、どちらかといえば、三重県は関西のなまりがはっているため同級生にまねをされた記憶があります。唯一、中日ドラゴンズは、阿下喜と名古屋の橋渡し役をかってくれました。

ですから名古屋の最初のイメージは、決してよくなく、早く田舎に帰りたいとばかり思っていました。小学校でもクラスの人数が多く、今まで先生との距離も近かったのですが、あれだけ人が多いとひとりひとり目をかけることが難しいと思います。どちらが教育にいいのかわかりませんが。

私は、現在名古屋に越してきて30数年経ちますが、今でも都会の雑踏より田舎にいたほうが落ち着くしふるさとに帰ってきた思いがあります。
恐らく余生は、静かな田舎で人生を全うすることを夢に見ていることでしょう。
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by himawari-office | 2007-08-27 16:01 | 生い立ち
愛知県美浜郡河和
私は、三重県員弁郡北勢町阿下喜に引越しするまえに約3年間過ごしていたのが愛知県美浜郡河和という小さな田舎町です。

この町の思いでも阿下喜ほどでは、ありませんが心の中に残っています。
夏は、潮干狩りで貝をとり家で味噌汁に入れて食べたことや貝殻公園という壁や建物に貝をひとつひとつ埋め込んだ公園で遊んだこと、岩屋堂という小さなお寺でところてんを食べたこと、幼稚園が嫌いでだだをこねていたこと、など海が近いだけあって本当にいい思いをしました。

貝殻公園の船の上から見下ろす太平洋は、本当に美しく、開放感に浸ることが出来ます。
現在は、管理が上手くいっていないのか昔ほどきれいな姿は、ないように思います。昔は、太陽の光が貝殻に反射して本当にきれいな姿でした。これを思うと残念です。

河和の町は、私の第2のふるさととして一生残ることでしょう。皆様も一度、貝殻公園へ行ってみて近況をお聞かせください。下記を参考にしてくださいね。

http://www.geocities.jp/ddjbd009/kannkou.html
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by himawari-office | 2007-08-21 16:14 | 生い立ち


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